龍神燈 この窓から見える海 豆本紹介

 この窓からは海が見える。
 朝靄の岬に立つ燈籠に灯が入った。

 燈明に眼下の入り江を透かし見て、ひとりの女が一心に祈りを捧げている。
 白地に龍の描かれた蝋燭が燃え尽きる頃、朝の光が翳り、雨粒が海面を打ち始めた。
 強風が燃え尽きかけた最後の輝きを吹き消す。
 女は祈りを聞き届けた天の神に感謝し岬を去った。

 入り江の港には晴天を待つ北前船が繋がれている。
 港町の小料理屋は昼飯時から徳利を傾ける船乗りでごった返していた。
「何だってんだ全く」
「今日も雨か」
 船出が遅れれば遅れる程、商いで損が出る持ち船の船頭らが奥の座敷で愚痴をこぼす。
 艤装の点検を終えれば後はやることのない水夫らも手酌で飲みながら恨めしげに表の雨を眺める他ない。
 空いた徳利を下げ、次の注文を取る女達の中に、今朝早く岬で祈りを捧げた女が居た。
 兵庫津から来たと言う水夫に酌をして空いた徳利を下げる。
 岬の女は新しく燗をつけながら赤銅色に日焼けした顔と目が合うと艶やかな笑みを浮かべた。

 船乗りは港々に女があるものだ。
 岬の女はこの水夫に妻子があるのか、他の港に女があるのか、立ち入った事は聞いていない。
 聞けば心穏やかで居られよう筈がない。
 何も知らずに、こうしてこの人を見られるだけでいい。
 この港でこの人の女になれなくても、それでいい。

 厨房では女将が鼻歌混じりに菜を刻んでいた。
 雨のお陰で足止めされた船乗りで連日の大入り、奥津城に眠る良人もさぞ喜んでいるだろう、と機嫌よく忙しさに身を置いている。
 魚を焼く煙、燗の湯気、煮付けの香りに時折、表から吹き込む雨と潮の匂いが混じった。
 卓の間をすり抜け肴を運び、空いた器を下げる。そのほんの僅かな合間に水夫に目を遣る。

 ただこうして間近で見ていられるだけでいい。
 どこへも行かずにこうしてこの人が、この港に居てくれさえすれば…

 汗を拭う振りで薄紅に染まった頬を誤魔化しながら洗い場に引っ込む。
 女はこの港町の蝋燭職人の娘だった。
 数年前に流行り病で母を亡くし、長子と末子は生き残ったが、間の兄弟は逝ってしまった。
 父は一命を取り留めたものの体が弱り、以前と同じには働けなくなっていた。
 娘は小料理屋の手伝いで老父とまだ幼い弟の暮らしを支えるようになった。
 弟も幼いながらも近所の手伝いなどをして家計を助けようと小さな手を傷だらけにしている。
 三人の口を糊し、老父の薬礼を支払うだけの厳しい暮らしだったが、今年の春に借財を返し終え、漸く肩の荷がひとつ下りたところだった。
 相変わらず楽な暮らし向きではなかったが、周囲を見回す余裕が生まれた。
 この家だけでなく、ここ数年は何処の誰某が船を手放しただの、娘を売ったのと、病は容赦なく、生き長らえた者達からも様々なものを毟り取って行った。
 蝋燭職人の娘が売られずに済んだのは、娘の他に売るだけの家財があっただけの事だった。

 今、嫁して子のニ三人もあってもおかしくない年になった娘の家には、薄い布団一組と位牌、僅かな食器と蝋燭作りの道具の他は、何も残っていなかった。
 畳や蚊帳までも売り払った板敷きの間で、病身の父だけを布団に寝かせ、姉弟は、莚を被って眠るのだった。
「何もない方が却ってさっぱりしていいわ」
 化粧道具を真っ先に売りついには母の形見まで売った時、娘は笑って言った。
 歩き始めたばかりの弟の布団を古着から拵えて自分の布団を売り、病人には板敷きに莚敷きがいいと聞いたと、畳も売った。
 医者の言いつけをよく守り、娘は晴れの日には布団と莚を日に干し、板の間を拭き清めた。
 以前と同じにはできないものの、父が日に幾らかは稼げる迄に回復する頃、弟の小さな布団も売った。

 借財を返し終えた日、父は娘に一本の蝋燭を手渡した。
「これは売り物ではない。泣き言も言わず、よくしてくれたお前にせめてもの財産だ」
 白地に龍神様の蝋燭を岬の燈籠に捧げて一心に雨師に祈れば、旱に困る事はない。
 この蝋燭を手本にお前も作るがいい。
 雨乞いの灯火に一心に祈るがいい。
 旱に苦しむ者があれば雨師に助けを求めるがいい。
 必ず乾きを癒して下さるだろう。
 もし、お前が北前船の者に惚れたなら、雨師に引き止めてもらうがいい。
 一日でも長く、恋しい者と伴に在れるように。
 船乗りに思いを告げる暇を貰える様に。
 この蝋燭を手本にお前の灯火を作るがいい。
 この明かりがお前の行く末を照らすように祈りを込めて作るがいい。

 嫁き遅れた負い目に思う女は自分よりも年若い水夫に思いを告げる事はなく、ただその姿見たさに今朝も龍神燈に祈る。
 時化で命からがら港に逃げ込んできた船があり、その日は常よりも長く店を開けていた。
 笑顔で檄を飛ばす女将の許で、手伝いの女達は、息つく間もなく、くるくると働いた。
 大入り袋を渡されて家に帰る頃にはどこも灯を点しておらず、長屋は寝静まっていた。
 父と弟を起こさぬようそっと戸を引き中に入ると女は明かり採りの窓から入る月明かりを頼りに蝋燭の絵付けを始めた。
 もう何度も描いた龍神の図柄はすっかり手が覚えている。
 少しでも長くあの人を引き留められますように。
 一筆一筆、祈りを込めて描いてゆく。

 ふと、今日のあの人の横顔が思い出され、手を止めた。
 いつにも増して込み合う小料理屋で、あの人は新しく入った船の者達と気さくに語り合っていた。
 水夫の一人が言った冗談に笑いが弾けた。
 あの人の快活な笑顔がそのままこちらを向き、自分の名を呼んだ。
 お銚子一本―

 追加の注文であっても、あの人が自分の名を覚えてくれ、呼んでくれた事が嬉しかった。
 女はこの上もなく幸福な心持で筆を手にしたまま舟を漕いでいた。

 鳴き交わす雀の声に夢から醒めると、既にいつもの刻限が迫っていた。
 急いで飯の仕度をし、弟を起こすと、
「あたし、今日は要らないから」
と、何か言いかける父の言葉も仕舞いまで聞かずに家を飛び出した。

 早くしないとあの人が行ってしまう…

 息せき切ってお社の石段を駆け上がる。
 草鞋の緒が切れ、あっと思った時には段に叩きつけられていた。
 痛みを感じる暇もあらばこそ立ち上がり、草鞋を脱ぎ捨て裸足で駆け出す。
 岬の頂きに駆け登り、ちらと崖下に目を遣れば、待ちに待った晴天に港は活気付き、出航の準備に大わらわの人の群れが見えた。
 女は、血の滲んだ足で倒れこむように燈籠に縋りつく。
 手が震え、何度も仕損じ、ようやく火が熾る。
 描きかけの龍神の灯へ、一心不乱に祈りを捧げる。
「雨師様、雨の神様、お願いします。早く雨を…あの人が行ってしまう」

 女の叫びは天に届いた。

 先刻までの晴天が俄かに掻き曇り、黒雲は強風に渦巻きながら大粒の雨を降らせ始める。
 女は吹き飛ばされぬよう岬のへりにしがみ付きながら港を見下ろした。
 一番乗りで出港した船が突然の暴風雨に揉まれ、木の葉のように翻弄されている。
 雨で貼り付く髪をかき上げ、女は目を凝らした。
 強風と波濤に船が大きく動揺し、水夫らは海に呑まれぬのが精一杯、菱千鳥を染め抜いた帆を畳むことすら儘ならぬ有様だった。

 一息の間に何樽分もの雨水が降り込み、波が舷を掴む。
 帆綱が千切れ、菱千鳥の帆が風に煽られ翻り、雷光が帆柱を打ち割る。

 あの人の船…

 ついに、小山のようにせり上がった波が、船を捕らえた。
 左舷に叩きつけられた波が白く泡立ちながら砕け散る。

 あの人の船が…私の願いのせいで沈んでしまう…

 海中へ引いてゆく泡沫の中に人の手や頭が紛れて消える。
 揺り戻す船に次の高波が牙を剥く。
「ごめんなさい…
 ごめんなさい…」

 女は吸い込まれるように岬から湾へ身を躍らせた。
 泥に塗れた身が大粒の雨に打ち清められ、解けた帯と乱れた髪が長く尾を引き、空を流れる。
 あの人に届けと伸ばした手は鱗を生じ、爪は厚く曲がった鉤になる。
 水夫の名を叫び、詫びる口は裂け、波間に恋しい人を探す目は爛々と燐光を発し、灯火よりも明るく輝く。
 身に絡んだ着物が松の枝に掛かり引き千切れる。
 湾に沈むその身に女の面影はなく、蝋燭に描き続けた黒龍そのものであった。

 黒龍と化した女は荒れ狂う波をないもののようにひたすら船に泳ぎ寄る。
 水中に、波間に見えた人々を口に咥え、浜に上げる。

 違う…違う…
 こんな筈では…

 命を失った水夫を咥える度に苦い後悔が胸にこみ上げる。あの人の笑顔が浮かんで消えた。

 違う…違う…
 死なせるつもりは…

 波間と浜を幾度も行き来し、死者と生者、菱千鳥の船乗りを陸へ上げる。


 雨が止み、風が凪ぎ、波は何事もなかったかのように鎮まった。
 女は尚も水底へ潜り、未だ沈む者がないか、瞬きもせず探し続ける。
 命拾いをした船頭が部下の安否を改め、浜に額づいた。
「龍神様、ありがとうございます。皆、揃って陸に戻れました。これでお弔いができます」

 生き残った者達が、沖に向かって一斉に手を合わせる。
 黒龍と化した女は深く深く、水底深く潜り、二度と浮かび上がっては来なかった。


 突然に空が荒れた日、姿を消した女があった事はいつしか忘れられ、人々は後にこの岬を「龍神岬」と呼び、海難救護の神として篤い信仰を寄せたと言う。

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