公園の帆船 この窓から見える海 豆本紹介
この窓からは海が見える。
小さな漁師町が入り江に貼り付くように伸び、湾内の穏やかな波の上に小型の漁船が、 何隻か浮かんでいる。 漁師町は細長い浜を挟んで海に臨み、その背後には、低くなだらかな山並みが連なっている。
その里山のひとつに古い公園があった。
棚田の所有者の家系が絶え、放棄されていた土地を宝くじの助成金で公園にしたものだった。
公園が完成した当時は、まだこの辺りにも子供が多かった。 子供達は路地裏や浜や港や里山で遊びまわっていた。
遊び場には事欠かなかったが、立派な公園ができたことを喜んでいた。
特に帆船の遊具は人気が高く、何組かのグループがそれぞれのガキ大将を頭に数え切れない程の小競り合いを繰返していた。
他は砂場とブランコとすべり台があったように記憶している。
当時、自分が住んでいた家がすっぽり納まる遊具には帆こそ張られていなかったものの鉄製の立派な帆柱を備えていた。
帆柱の周囲には、丈夫な縄で編まれた網が巡らせてあった。舳先と船室には丸い窓が開いていた。
大抵の子供がサルのようにするすると帆に登り、 帆桁から網に飛び降りるなど無茶な遊びをしては棚田に農作業に来た大人達に叱られていた。
臆病な自分は高い所も大人に叱られることも怖かったので、いつも舳先の窓から海を見ていた。
自分とは別の理由で帆柱に登れないよろず屋の子とこの窓から見える海のかなたについて語り合った。
ふたりは同じ夢を見ていた。
町の小さな漁船では到底行けない海の彼方へこの遊具のように大きな船で行くのだと。
彼は当時としては珍しい一人っ子で店を継がなければならないことは幼いながらもよく心得ていた。
珠算が得意で学年の誰よりも早く一級を取っていたが、運動は苦手で走るのは遅く、 カナヅチで、逆上がりもできなかった。遊具の帆柱に登れないのもこのためだった。
カナヅチじゃ漁師にだってなれないよ。ウチが商売でよかったよ。
夕日に染まった海を見詰めてホッとしたように微笑む彼にとって、船乗りの夢はあくまで夢として語る対象だった。
子供らしい夢と商人的な計算と、現実との妥協が入り混じる不思議な子供だった。 誰とでも上手くやってゆけるイイ奴で、臆病な自分をバカにする事はなく、 彼が仲良くしてくれたお陰で、誰も自分を馬鹿にしたりいじめたりすることはなかった。
自分はこの町では最後まで余所者のままだったが、彼だけは心から受け容れてくれていた。
自分の父は商社勤めの転勤族で、当時は漁師町の隣町の営業所に勤めていた。
日に数本しかない電車に乗って黙々と家と営業所を往復していた。
残業で終電に間に合わない日は、よろず屋に電話して会社に泊まることを伝えた。
その頃の漁師町には、駅とよろず屋にしか電話がなかったので夜道を通って彼が我が家に知らせを持ってきてくれた。
そんな時、母は父が隣町で買い求めた買い置きの菓子を礼の言葉と共に彼に持たせて帰らせるのだった。
転勤、転勤、また転勤で土地の言葉を覚える前に引越す自分は、いつ何処に居ても余所者だった。
何故か彼と彼の友達に混じって遊んでいるときだけは、自分が余所者であることを忘れられた。
斜面を上がってくる潮風に吹かれながら時の経つのも忘れて遊び呆けた。
丸い窓の向こうで沈む夕日を見ながら、他愛もない言葉を交わした。
「明日、いとこの兄ちゃんが映画連れてってくれるって」
「いいなぁ。何観してもらうの?」
「ゴジラ対ヘドラ」
「いいなぁ、いいなぁ。ゴジラいいなぁ」
「父ちゃんに連れてってもらって一緒に行こうよ」
「父さん最近忙しいから日曜日も会社……」
俯く自分に彼は大慌てで言った。
「あぁあぁ、じゃあ、明日…は夜遅くなるから〜明後日、筋を話してやるよ」
「…ホント?」
「当たり前じゃないか。しっかり憶えてくるから月曜日、学校が終わったらすぐここに来いよ」
彼は自分と話すとき、言葉だけは標準語に合わせてくれていた。
発音は土地のなまりのままだったが、 それが土地の言葉にいつまでも馴染めないでいる自分への彼なりの気遣いだった。
力強く請負う彼と目を輝かせて指切りして帰った。
家に帰ると母が段ボールに何かを詰めていた。
母は作業をしながら嬉しそうに説明を始めた。
父が東京の本社に異動が決まったこと。
もう地方を回らなくてもいいので家が買えること。
急な話だが明日中に荷造りして引越すこと。
「月…月曜日に友達と約束してるのに…ダメだよ…そんなの」
「あら残念ねぇ。お父さん月曜からお仕事なのよ」
「…火曜からじゃあダメなの?」
「ダメに決まってるでしょう。…いいわ。急な話ですもんね。
明日はお手伝いしなくていいからお友達にお別れ言ってきなさい」
自分だけ後から行くのではいけないのか、 もういっそこの町の子になるなどと散々駄々をこねて母をてこずらせたが、 帰宅した父に一喝され、渋々納得させられてしまった。
枕を涙と鼻水でぐしょぐしょにして目が覚めたのは日曜の昼前だった。
台所の窓からかもめが飛び交う海を呆然と見た。
船だったら電車より近道できるんだ。
彼の得意げな顔が浮かび心臓をぎゅっと掴まれた。
早起きすれば彼に直接事情だけでも話せたのに。
「母さん!どうしてもっと早く起こしてくれなかったの!」
「昨日遅くまでぐずぐず泣いてたからそっとしといたげたんじゃない」
憮然として母は段ボール箱に内容品を書く手を止めた。
自分は腹立ち紛れに母の手から油性マジックを奪って箱の文字にX印を書き殴り、 引越しなんてしないから!と叫んで、家を飛び出した。
昼時で、帆船の公園には誰も居なかった。
誰か居た所でそれはよろず屋の子ではない。
あの子は今、遠くの町で何も知らずに映画を観ている。
自分に語って聞かせる為に一生懸命、映画を観ている。
約束が果たされないことを知らずに。
ひとしきり泣いた後、震える手で窓の下に伝言を書いた。
白く塗られたコンクリートの壁に自分の拙い文字が黒々と現れた。
泣いた顔を見られるのが嫌で、そのまま誰にも別れを告げずに帰った。
三十年振りにこの町を訪れた。
駅は自動改札になり、老婆がホームで声高にケータイで話している。
改札を出ると町並はすっかり変わっていた。
駅前は整備され、市バスのロータリーになり、 沖合いの小島に渡る遊覧船や民宿の看板が立っている。
彼の実家のよろず屋はコンビニになっていた。
アルバイトの若者が物憂げにレジに立っている。この若者は自分が町を離れた頃、生まれてもいなかったろう。
自分は、僅かに面影が残る見知らぬ町を通り抜け、山へ向かった。
棚田は葛やススキに覆われ見る影もない。
あの頃、毎日駆け登った山道を今日は息を切らせてゆっくり登る。
ただ足許だけを見て、一歩一歩踏みしめ確かめながら足を前へ出す。
その一歩毎に他愛ない思い出の欠片が浮かんでは消えていった。
公園は当時のままそこにあった。
子供の姿は見えないが、整備された地面に棒切れで書かれた落書きがある。 遊具のペンキは色褪せ、所々剥がれ落ちていた。
帆船の舳先に向かう。
風雨に晒され消えかかった子供の文字がまだ残っていた。
幼い自分の伝言。
その傍らに、彼の文字が添えられていた。
「ずっと友だちだよ」
内ポケットからボールペンを取り出し、精一杯きれいな字で返事を書いた。
「ありがとう」
この窓から見える海はあの頃と変わらず穏やかに輝いていた。