レストランの片隅で ちいさなかなしみの本 豆本紹介

 一九九七年 冬…

 しばらくろくなものを食べていなかったので、ひとつおいしいものでも、と思い外食した。帰り道にある時々雑誌に載っている店で、その日も少し混雑していた。
 ひとりで入ったがカウンターは満席で奥の二人席に通された。

 サラダをゆっくりと口に運んでいるところへ家族連れが入ってきた。

 父母娘息子の四人。
 父親は風采の上がらない人物だったが母親は派手なというよりも華やかなという形容が似合うキレイなヒト、高校生…大学生かもしれない娘と、幼稚園児の息子だった。 四人は一番奥、私の左隣の六人席に通された。

 私はサラダを食べ終え、ぼんやりと次の料理を待っていた。

 隣の母親は料理を待つ間ほとんどずっとひとりで喋り続けていた。
 父親はそれに相槌を打つ程度。
 娘もそのくらいで、父娘は時々声を立てて笑った。
 息子は何も言わず、笑い声も上げず泣きもしなかった。

 盗み聞きの趣味はない。
 彼女の声は大きく、私は人ひとりやっと通れる通路の幅だけ離れた隣にいたので会話はいやでも耳に入ってきた。
 娘の海外ホームステイの話らしい。
 ステイ先の家が娘に持たせてくれた土産にケチを付け、交換できた子の悪口を言い、相手方の家のみならずその子の恋人までけなしていた。
 他人を褒める話も、嬉しい話も楽しい話もなかったが、彼女はとても明るく華やかに語り、父と娘は時々笑った。

 とめどなく続くおしゃべりの中に、不意に息子が何かを秘密にしていた件が出て来た。他所のおばさんが母親に報告したらしく、彼女は、

「ママに隠し事をした」

という件についてのみ激しく息子を責め立てた。

 私には事の経緯も善し悪しもわからないが普通、幼稚園や小学校低学年の子供はわざわざ秘密を作って「ヒミツ遊び」をするものなのではないか。

 それはともかく。
 幼い息子が、黙って俯いたままミネストローネをすすっていると、
「ねぇッ?聞いてるの!」
と母親はヒステリックに怒鳴り、

隠し事をしても
どこかで
誰かが見ていて
ちゃんと
ママに教えてくれるから
隠し事なんて
できやしないのよ

…というような趣旨のことを執拗に言っていた。

 繰り返し
 繰り返し

 逃げ場なしッ?
 どこまで行っても監視と追っ手ッ!
 こわッ…つーか、
 自分の息子追い詰めてどないすんねん。
 私は心秘かにツッコミを入れた。

 息子はそれでも黙って俯いたまま、今度は時々頷きながら、少しずつミネストローネをすすっていた。

 私は不味くなった様な気がして飲むのを中断した。
 やや苦味のある一〇〇%グレープフルーツジュース。
 若いカップルが私の右隣の二人席に就いた。
 見渡すと店はそのふたりで満席になっていた。

 私のパスタはまだ来ない。
 席の移動ができなくなった以上、料理が揃う前に店を出てしまおうかとも思ったが、恐らく茹で始めている頃合なのでそれはやめにした。

 そして何事もなかったかのように面白おかしくホームステイの話を再会する母親。
 私は息子の疎外感が痛い程感じられ、果汁が喉に詰まりそうな気がした。
 話の内容は幼稚園児には難しい(時々完璧な発音の英語が混じる)し、何より今、怒鳴られたばかりでは父や姉と一緒に笑うことなどできまい。
 三人は彼が居ないかのように楽しそうにおしゃべりに興じている。

 息子はひとり黙ってミネストローネを口に運ぶ。

 母親は何故かまた突然に
「息子が車を降りてすぐに道路に飛び出したこと」
について責め始めた。

 危険な行為をした事よりも息子が自分の命令に従わなかった事について、腹を立てているだけのようだった。
「この子ったら嬉しいんだか異常にはしゃいじゃって車のドアを開けるなり大声で笑いながら道路に飛び出してったのよ?信じられない事するでしょ?ねぇ?」
 夫に相槌を求める妻。
 夫は黙って頷いている。
 夫が居ない時の出来事だからいちいちそんな説明が必要なのだろう。
 と、言うことはつい先刻の事ではなさそうだ。
 テーブルに車の鍵が載っていて父親はそれを指で小突いている。
 今、ここに来るのに父親が運転してきたらしい。
 では、彼女の言う息子の異常な行動は一体どのくらい前の事なのだろう。

 「叱る」なら

 「その場で」
 「一度だけ」

 叱ればいいのに。

 漸くパスタが来た。
 フォークを手に取ったものの手を付けられない。
 とても空腹だったが食べる前から喉が…胸が詰まって、フォークを置いた。
 そんな話を食事中に聞きたくはなかった。
 ほかの時でもいやなものだが、よりによって…
 席を替わろうにも、もう行き場はない。
 そんな話を何故わざわざ食事中にするのだろう。
 子供は黙ってたらこパスタを口に入れていた。
 私は果汁をひとくち口に含んで俯いた。

 母親は先刻以上に執念深く息子を責めていた。
 曰く、
「ママの言う事が聞けないなら他所の子になりなさいッ」
 曰く、
「たまごっちは死んでも生き返るけど、
 ボクは死んだらもぉ二度と生き返れないのよぉ?
 死ぬって言うのはボクひとりでどこか遠い所に行ってしまってもぉ二度とママの所にも幼稚園にも行けないって事なのッ!わかるッ?」

 多分、彼女は命の尊さを説明した積もりなのだろうが、私には彼がそう遠くない未来に起こすかもしれない母親殺しの計画書か、彼の自殺の遺書の草案に聞こえた。

 こんな人生リセットできるなら他所のママの家の子として生まれ直したいし、ママの居ない所なら何処へなりとも、できる限り遠い所へ行ってしまいたいし、二度と戻らなくていいのならそれに越したことはない…
…と彼は思っているのではないか…私はそんな気がしたが人の心はわからない。
 彼自身は恐らく幼すぎて自分の心を把握しきれないだろう。

 死ぬって事は
 ひとりで
 何処か遠い所へ
 行ってしまって
 戻ってこないこと
 自分がどこかへ行ってしまいたければ自分で死ねばいいし、
 ママが邪魔ならママに死んでもらえばいい。

 カンタンだ。

 しかし息子は相変わらず俯いたまま泣きもせず怒りもせず反発もせず表情を硬くしたままたらこパスタを一本ずつすすっている。

 辛いなら子供の内に泣けばいいのに…

 ずっと泣いていれば児童相談所か警察が助けに来てくれるかもしれないのに。
 もう泣き方すらわからなくなってしまっているのだろうか。

 姉との年齢差から察するにうっかり生まれてしまった子供だから、あんなに責められるのではないか、と思った。
 母親は息子を「ボク」と呼んで決して名前で呼ぶことはなかった。
 父親も母親の仕打ちを黙認している。
 うっかり生まれてしまったのは彼の責任ではなく、夫婦の失敗であろうに、その責任を生まれてしまった子供になすりつけているのか?違っていてもいなくても大変失礼な憶測だが他人をしてそう思わせるに十分な姿だった。

 既にまずくなってしまったパスタだがクリームスープは冷めると膨らんでくっついて食べにくくなるのでフォークに引っ掛けて無理矢理口に押し込み始める。
 ここの料理は非常においしいとの折り紙付だが値段もそれなりにして残すと食材もお金も大変勿体ない。口の中にはおいしい味が広がっている筈だが、土を食っている様で喉が詰まった。
 右隣のカップルは時々親子の方に目を遣りながら、慎重に楽しそうな話題を選びながら語らっている。声の大きさとトーンの苛立たしさから入口付近の白人女性のグループもチラチラと一番奥の席に視線を向けている。
 ホール係は誰も一番奥の六人席にお冷の追加に行かない。

 母親は店内の緊張した空気に気付いていないのか楽しそうにホームステイに関わった人々の悪口を言い、子供を責め、を繰り返している。

 「そうよ、この子ったらね…」
と姉が母の言葉に相槌を打ちながら弟の悪戯を告げ口した。
 「あなたにこのコをとやかく言えるの?
  お姉ちゃんならもっと弟を庇ってやるとかしたらどうなのよ。
  他人の事をとやかく言える程立派な子じゃないでしょ。あなたなんて。
  私の娘なのに。」
 母親の言葉に保身の為に弟のちょっとした悪戯を売ろうとしたであろう娘はしばらくしゅんとしていたが再び楽しそうに会話の輪の中に入っていった。

 いやぁ、あなたの娘だからそんななんでしょうよ。
 あんたこそ他人をとやかく言えるような立派な人物でも子供の躾ができるような母親でもないよ。
 兄弟を庇うより保身の為に親に媚びる子に育ててしまった自分を省みなされや。

 余程おばはんを黙らしたろかと思った。

 が、いきなり他人がそんな事を言っても恐らく耳を貸さないだろうし、
 仮にこの場では神妙なフリをしても家に帰ってから、
「よくも親に恥をかかせたわねッ!
 あんたみたいな子がいるせいで…!」
…などと、他人の目の届かない所でどんな酷い事をしでかすか知れない。
 私の知らない所で行われるであろう仕打ちを思い、喉元まで出掛かった言葉を何度も飲み込んだ。

 そうか…これが喉に詰まっているのか…

 一家と私は同時に食事を終えた。
 なんとか完食したものの胃に痛みを覚えていた。
 普段ならばこの程度の量は物足りないくらいなのだが。
 一家は次々に追加してそれぞれ料理を半分ずつくらい残して席を離れた。
 食べ物を残すことを、粗末に扱うことをなんとも思わないらしい。

 四人がレジに向かうや否やカップルの女の子が声を震わせた。
「ちょっと!何あれッ?
 あっこまで言うことないと思わん?
 めっちゃ可哀想やん。あの子…!」

「そうやんなぁ。お前もそない思とったんか…」
彼氏が頷き、私もそう思っていた。ひでぇ。

 あの子に、

 初対面で名前も知らない人だけど少なくとも三人。
 三人の大人が、君の味方だったんだよ。

…と教えてあげたかった。

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