かいとり ちいさなかなしみの本 豆本紹介

 嵐の翌朝、浜に降りた。
 まだ高い波が所々白い牙をむきながら打寄せている。
 遠く海の彼方から様々な物が流れ着いていた。
 ビーチサンダル、空き缶、流木、発泡スチロール、浴槽、食器、人形。
 ペットボトルの文字は全く読めず、何処の国の何語なのか見当さえつかない。

 重いがらくたは波打ち際に滞り砂浜の奥に貝殻の白い帯が広がっていた。
 その中の一枚の貝殻が目に留まった。
 白い、掌程の二枚貝の片方で外側にフジツボが付いている。
 フジツボも殻だけのようだ。
 何故そんな何の変哲もない物が気になったのだろう…。

 手に取ってみた。

 空だと思っていたフジツボの中に何か居る。
 覗き込むとピンク色でまだ裸の小さな…羽毛も生えていない小さな鳥の雛だった。
 フジツボの大きさから察するに雛は小指の先程の大きさだろう。
 ひょっとするとフジツボだと思った物は鳥の卵、卵の殻なのかも知れない。
 寒いのか雛は震えていた。
 そっと貝殻をポケットに仕舞いこみ家に帰った。

 貝を机の上に置くと体が温まったせいか餌をねだってピーピー鳴き始めた。
 何を食べるんだろう?
 羽も生え揃わない赤裸の小さな体の何処にこんな大声を出す力があるのやら…。
 考えながら台所を掻き回す。
 胡麻のすり鉢でちりめんじゃこをすりつぶしぬるま湯に溶いてストローに取り、まだやわらかそうな嘴に近付けてみた。
 雛は一口で満足し、殻のふちに頭をのせて寝息を立て始めた。

 次の朝早く、コツコツコツと云う音で目が覚めた。
 雛がフジツボ状の卵の殻をつついている。
 フジツボはあっけなく壊れ、ひとまわり大きくなった雛は窮屈な殻から這い出した。
 まだ裸だしこのままじゃ寒いよな…。
 貝殻を裏返し窪みにティッシュを敷いてみる。
 雛は気に入らないらしく蹴り出してしまった。
 仕方がないのでそのまま昨日と同じように餌を与える。
 昨日は一口で満足げに口を閉じていたが今朝は一向に黙らない。
 鳴き続ける口にストローを近付けると顔を逸らす。
 海色の大きな目が何かを訴えている。

  ピーピー…カイカイ…

 ふとそう言っている様に聞こえた。

 ピーピー…かいかい…
 ピーピー…貝貝…

 一瞬ヤドカリのように巻貝を背負う雛の姿が脳裡をよぎる。
 そんな馬鹿なと思いつつも再び浜に出掛けた。
 ひびや欠けのない物を探し、大小様々な巻貝と二枚貝、フジツボの殻、干乾びた海星を拾ってはポケットに詰め込んだ。膨らんだポケットを押さえて帰ると雛は貝の上で大人しく待っていた。
 俺の姿を認めピーピー甘えた声で鳴き始める。
 裸の小さな羽を震わせ顔中を口にして餌をねだる仕種も愛らしい。
 餌を与えて人心地ついたところで先程拾ってきた物を雛の前に並べてみた。
 雛はよちよち貝から降りると巻貝を中心に調べ始めた。
 どういう基準があるのかわからないが、穴の中に嘴を突っ込んだり羽で入口の大きさを測ってみたり、お尻から中に入ってまた出てきたり…とヤドカリそっくりの仕種で巻貝を調べている。
 一時間余りかけて巻貝を調べ終え丁度身に合う巻貝を見つけた。
 その中にすっぽりと納まり、何か大仕事を成し遂げたように得意げな顔で餌を催促する。
 吹き出しそうになるのをこらえながら、餌を口に入れてあげた。

 一ヶ月が過ぎ、身に合う巻貝がなくなる頃にはすっかり羽毛も生え揃い、最初に拾ったフジツボ付きの白い貝の上に座っていることが多くなった。
 時々羽ばたく真似をするがまだ飛ぶことはできない。
 片言だった心への直接の語り掛けも、次第に流暢になってきた。
 海の色をした小さな鳥の声が心に聴こえる。
 それを当然の様に受け容れ不思議だとも何とも思わない事が不思議だった。

 海色の貝鳥の声は明瞭な言葉ではなく映像を交えた感覚的なものが多かった。
 夢の記憶を他人に伝えるように、言葉を探せば薄れてしまう、そんな声だった。

 嵐の海。
 波に削られる海底。
 高潮。
 二枚貝にふたつのフジツボ…いや、卵…貝は離れ離れに海面と海底へ。
 高い飛沫を上げる波。
 海底に向かう親鳥。
 白い砂浜。
 打寄せる波。
 静かな渚。
 まぶしい光。
 人の手。
 餌の詰まったストロー。
 部屋。
 たくさんの貝。
 海。

「いつ頃海に返せばいい」

…この翼に光を帯びる頃…

 海の底に沈む貝の片割れ
 それを追う親鳥の翼の光

「……家族を探しに行くんだね」

…わからない…

「沈んだのは、兄弟じゃないのか?」

…それは確か。
 探しに行かない…

「どうして?」

…お前と同じ…

「同じ?」

…見捨てられた者…

 何と言葉を返せばいいのか。滞った俺の心に貝鳥の穏やかな声が届く。

…お前が声を聞き届け、
 守ってくれなければ
 生きていない… 

 幼い頃の光景が、深く暗い心の底から浮かび上がってくる。

…お前も親ではない者に救われた…




 家を出たまま帰らなかった父。
 幼い子供に理不尽な言い掛かりを付けて暴力を振るう母。

 お前なんかが生まれたから

 殴られてできた内出血の痕も他人に問われれば転んでぶつけたと全ての人に全く同じ嘘をつき続けた。

 何もかもが、俺ひとりの責任だった。 

 夫婦の破綻も、
 俺を引き取るハメになったにも拘らずアテにしていた養育費が入らなかった事も、
 親戚の反応が冷ややかで一切の援助が得られなかった事も、
 ロクなパートが見つからなかったのも、
 誰とも再婚できなかったのも、 全て俺と云うこぶのせいだった。
 破綻の原因が母にある事も、
 母自ら俺を手放そうとせず離婚に応じなかった為に、
 父が行方をくらます以外に妻の手から逃れられなかった事も、
 母の方が離婚について親戚と対立し一方的に縁を切ってしまった事も、
 高慢で怠惰な性格で特にこれと言った資格も免許も持たない母に実入りのいい仕事ができる筈がないという事も、全て大人になってから知った事だった。


 死んでしまえ
 お前さえいなければ
 生まれなければ


 割れた爪の言い訳はいつもドアで挟んだで押し通した。
 母自身が他人前でそう答える俺の言葉に騙され、俺の嘘を信じ切っていた。
 そんな嘘に騙されていたのは恐らく、母ただ一人だったろう。
 自分の加害行為を全く記憶していられないとは一体どういうことだろう。

 子供に恵まれなかった、中華料理店の夫婦。
 昼食時の少し後、混雑が解消した店内に招いてくれた。
 お代はいいからと具がたっぷり入ったスープと焼飯を作ってくれた。
 母はその日の気分で食事を与えたり与えなかったりした。


 ここで漫画読んどきな。
 おっちゃんらの店
 昼過ぎたら晩まで
 お客さん来んから。


 カウンターの片隅で漫画雑誌を読み耽る幼い俺。


 小学校を卒業する頃に中華屋のある町を引越した。
 中学に入学しても暴力は続いた。
 むしろ体が大きく育った分、多少の事では死なないだろうと苛烈さを増した。

 俺は抵抗しなかった。
 抵抗すればきっと殺し合いになるに違いない。

 近所の人々の非難と励まし。
 当初、母を直接諫めていた近所の人々は、母がその場を愛想のいい笑顔で切抜け家で更に暴力を振るうことを知ると、母と目を合わせようとさえしなくなった。
 薄給のアパートは隣近所に箸の上げ下ろしの音さえ筒抜けだった。
 母の居ない所でこっそり励ましてくれるようになった。
 高校受験の合格発表の翌日思い余った近所の誰かがとうとう一一〇通報した。


 母から隔離する為に施設で保護された。
 高校卒業後就職と同時に夜学に進学し、母には住所を明かさないまま大学に近いこの町に引越した。

 この町には俺を知る人は居ない。


 一度だけ十数年振りに中華屋を訪れたが夫婦にはもう俺がわからないようだった。俺も名乗らなかった。

 懐かしい味を口にして何も云えなかった。




 とめどなく蘇る記憶。
 零れ落ちる涙を小鳥は不思議そうに見上げていた。

…お前が探さないから、
 探さないだろう…

 父を探そうとは思わなかった。
 持て余した妻とひとまとめに子供を見捨ててしまった弱い男に用はなかった。
 記憶する限り父はやさしかったが子供一人守れない弱い男は父親になるべきではなかったろうと思う。

 彼も捨てた子供に会いたくはないだろう。

 何事にも責任を負う事のできない、何もかも誰かに決めてもらわねばならず何もかも他人のせいにせねば気が済まない弱い女は結婚すべきではなかったし母親になるべきではなかったのだろう。

「いや、何も別に俺の真似しなくても…。」

…真似ではない。
 必要ないと知った…

 父が必要としなかった子供もまた、父を必要としなかった。
 恐らく自分は父になることなく一生を終えるだろう。
 三十を少し過ぎた今迄、誰かに特別な感情を抱く事は一度もなかった。
 二十代の前半に何人かの女の子に特別な感情を向けられた事はあったが、彼女らが何故そう思ったのか皆目見当がつかなかった。

 俺に何を見たのだろう。

 どう対処していいかわからず戸惑う内に彼女らは一様に失望して離れていった。
 からかいや暇潰しでなく真剣だった目を思い出す度に、申し訳なさに胸が痛んだ。
 でも、別に俺が頼んで裏切ったわけじゃないのにな…。
 何故女の子は自分の見る眼がなかったのを男のせいにして、自分だけ被害者ぶることができるのだろう。
 みんな母のようになってしまう可能性を秘めているのだろうか。

 かといって他の誰かを特別に想えない程自分が特別好きな訳ではない。
 親に不要とされた自分を特別嫌う事はなかったが好きになることもできなかった。



 更に二週間が過ぎ、貝鳥の翼は満月の光を受けて淡く光を放つようになった。
 俺は貝鳥を肩に乗せ浜に降りた。

 月光が海面に注ぎ、細く遠く続く道ができていた。


 誰も居ない晩秋の夜の海辺は月が揺らす漣の音だけが聞こえている。



 無音より静かな静の音楽




…海と空に住む。
 貝鳥。
 また会うかも知れない。
 陸に住む。
 ひとりの人…




 そう言い残して貝鳥は月光の道に向かって飛び去った。

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